スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

演劇と舞踏

このところ、ひょんな加減で演劇関係の本を読んでいた。
グロトフスキとビーター・ブルックだ。
どちらも演劇の世界では世界的に有名な演出家で、読み応えあった。

私は舞台が好きではないので演劇にも疎かった。
ただいつも、舞踏は演劇の原点、エッセンスであると思っていた。
その場合の演劇とは、必ずしも舞台表現という意味合いではない。
私にとって額縁舞台というのは退屈で耐え難いものだ。
それは金持ちのリビングに飾ってある名画のようにそらぞらしい。
でもグロトフスキとピーター・ブルックの本は面白かった。
舞踏と演劇の重なる部分について、思うところがあり、とても勉強になった。

ヨーロッパにおける演劇の伝統というのは、並々ならぬ強靭なものがある。
日本における近代以降の西洋演劇とは、ずいぶん印象が違う。
日本でいえば歌舞伎などの伝統がそのまま途切れずに続いて、市民生活に直結している感じかな。
日本の場合は近代化によって、伝統と、西洋からの輸入演劇が断絶している感がある。
例えばイギリスでは、シェイクスピアが学んだ演劇学校が今でもあり、ちゃんと機能している。
現代においても役者は厳しい訓練を受け、役者の社会的地位も高く、
歳をとったら、最終的にはシェイクスピアのリア王を演じるのが最高の栄誉であると。
日本のようになんの研鑽も積んでいない、顔がいいだけのタレントがすぐにドラマの主役をやるとか、
そういうことはないらしい。
イギリスの場合、伝統に寄りかかりすぎる弊害もないとは言えないにしても。

グロトフスキはポーランドの、ピーター・ブルックはイギリスの演出家で、
西洋演劇の中では異端の存在らしい。
どちらも「お芸術」として完結している演劇のあり方に飽き足りず、
西洋演劇の世界に革新をもたらした。
まあこんなことは演劇人にとっては周知すぎる常識ではあるけど。
(ついでに言うと、日本のある時期のアングラ演劇は、どうもこの流れの中にあるようだ)

グロトフスキは俳優の身体を重視して、徹底的に身体訓練をして、
総合芸術としての、音楽や美術や文学など寄せ集めとしての舞台表現でなく、
俳優の身体のギリギリのありようを追求した。
その身体観は舞踏にちかい。
( ただ稽古法はかなり体操っぽくて、舞踏ほどの深みはない)
ビーター・ブルックは世界中の土着の演劇と交わり、
場所性・土地性・即興性・俳優の内的動機を鍛え抜き、絶えず生成を起こし続け、
演劇の西洋的な枠組みを突破しようとした。

両者ともに演劇の原点を探し求め、実験を重ねていったからだろうか、
結果的に舞踏に通じるものがある。
それは演劇を、聖なる行為・神託行為として位置づけているところだろう。
トランスを重視しているところなどは、読んでいて驚いた。
あまりにも舞踏に似ているため。
ここで論じられる俳優とは、観客を唸らせ拍手をもらうための存在ではなく、
古代における神託行為にちかいものであり、観客はその行為の参加者であり立会人である。
その探求が成立したのは、西欧には、ギリシャ悲劇から、否もっと以前から続いている、
演劇の歴史に対する信頼があるから、と私には見える。
西欧の演劇は、
民族部族間の、宗教の、度重なる戦争、移民問題、人種差別、階層階級問題、
などに徹底的に鍛え抜かれている。
たんなる娯楽ではない(娯楽の演劇もあるだろうけど)
大げさにいえば、それは市民が生きるための血肉である。

私は、舞踏は原・演劇であると思っている。
それはふつうの舞台表現という意味ではなく、
例えば、二月堂のお水取りみたいなものであり、沖縄のイザイホーのようなもの。
人間が人間であるために欠かせない根源的な儀礼的行為。
無のなかに有を打ち立てようとする、生きるための根本の能動性。
踊り手や俳優は、神なるものを受け取り、実現する、
他界と現世を自在に行き来するシャーマンのような存在である。

そういうものを舞台表現にせざるを得ないという、どうしようもないジレンマがあるのだが。
西欧においては、鍛えぬかれた演劇表現の歴史が、
この儀礼的行為の「仮の宿」となるのかもしれないが、
(正直それも疑わしい気がしているけど)
日本の現状では、ムリっぽいなぁ と思った。
世界的にムリなのであると言ってしまえばそれまでなんだけど。

舞踊が演劇と区別されるのは、時代がかなり下ってからであり、
もともとは区別はなかったのだと感じている。
神がいて、人間がいて、土地があり、身体があり、所作があり、言葉があり、音楽があり、
舞踊になり、演劇になった。そういうものだろうと。
私はその、もともとのあり方が、
現代においてあまりにも忘れられていることを問題にしている。
古代のまんまの形で実現できるとは思っていない。

グロトフスキにしてもピーター・ブルックにしても、
身体性を重視しているけど、その身体性が、
どうしても西欧の限界の中にあるとも思う。
実際に彼らの舞台を見ていないので失礼ではあるけど、
まあ私ごときが何を言ったところで社会的にはなんの影響もないので、
好きに乱暴な口をきくけど。
本で読んだ限りで、その身体性はかなり底が浅い。
彼らに舞踏の本質を見てもらいたかったと思う。
舞踏にはものすごい宝が眠っている、と
彼らの本を読んであらためて確信を持った。

・・・
われらのうちなる沖縄。
我らの内なるアフリカ。
われらの内なる古代。
この内なるというのがミソだ。
もう時代は「内なる」に至らないと、どうしようもなく刷新はできない。
世界中を回って原初世界の儀礼を集めても、
体操のように体を鍛えても、
そこに人間の新しい道はない、と私は思っている。

だからどうするって、私にもわからない。
今わたしにできることは、
身体の可能性を稽古で追求し続けることと、
ささやかながらその成果を人前に公表することだろう。
それすら困難だ。
公表したところで誰も見に来ないだろうし、
鉄の壁を爪で引っ掻くだけのことだろう。
またまた孤独を増すだけかもしれないのだよね。

でも私は「歩く」と決めたんだ。
ただ歩くだけの存在で自分はあると。
成果を求めていたら続けられないからね。
歩くだけなら当面はできる。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
プロフィール

Author: 最上 和子
[著作者紹介]

 








[管理画面]
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。