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身体の中の歴史

公演活動をしていた頃、
本番で踊っていて、足の下に何もない、という感覚に苦しめられた。
足の下には床がありその下には地面があると、頭でははわかってたけど。
その感覚が何なのかがわからなかった。
なぜこんなに踊ることが空虚なのか、
自分の体がふわふわしたあてどもない感じがするのか、
なぜお客さんから拍手をもらっても達成感がないのか。
ああ足の下に何もない、と思った。
これではがんばりようがないと。

後になって、都市生活者である自分には共同体もなく、
伝統芸能のように先人に繋がるものもなく、
西洋型の舞台表現の身体はもともと根拠が希薄であり、
自分の身体がなんの根拠もないところで、宙吊りになっていることに気がついた。
それを知的認識でなく、自分の身体が感じてしまうことが不思議だったし、
逆に言えば身体は「何かを知っている」のだなと思った。
虚しくて耐えられないよ、と身体は言っていた。

それから踊りの根拠を求める私の長い旅が始まった。
それは身体の根拠ということでもあった。
芸能の力というけど、現代における芸能ってなんなんだ。
芝居小屋に行けばそれがあるのか。
伝統の踊りをやればそれがあると言えるのか。
果たして大道芸は今でも力があるのか。
すべては単なる趣味嗜好のものであると思えた。

なんの根拠もないところに自分の身体を打ちたてなくてはならない。
そんなことが出来るわけがない。
私はただ立ち止まっていた。

もともときわめて内的な人間だった。
自分の踊りの根拠は何かと悩み続けていて、ただひとこと、
「死者」という言葉が残った。というか発見できた。
身体に取り組んでいくうちに、自分のなかに死者たちを発見していった。
死者というと死体のイメージがついてまわるけど、
そういう暗く生臭いものではなかった。
言葉をかえればそれは、無限の世界であり、
地と図でいえば地を意味していた。
それを死者と呼ぶのは、踊りをしている者特有の感覚なのかもしれない。
大野さんも土方さんも、さかんに死者と言っている。
また伝統芸能にしても民族芸能にしても、
もともとは死者や他界や、その延長にあるカミの領域に交わるものだ。

私の場合、伝統芸能では逆に死者も他界も感じられなかった。
どのような道筋で感じたかと言うと、
ただひたすら自分の身体とつき合うことで、
マテリアルな身体そのもののなかに、死者や他界を見出していったのだった。
これは驚異だった。
そんなところに行くとは思いもしていなかった。
ややもすると観念的妄想的になりがちなのが身体だから、
危ういところはあるなと思っていた。
でもその感覚の手応えを疑うことはできなかったし、
踊るという行為は、観念操作ではできないものだ。
具体的なものでなくては身体は言うことをきかないし、
観念や妄想に支えられていれば踊りは空疎になってしまうものだ。
(まさしく西洋のアートの踊りがそれだ)

身体を降りていったところにある、歴史という地層の発見だった。
身体の垂直性(身体の層)における歴史と他者の発見だった。
そしてその延長に巡礼の企画があった。
身体をもって土地とあらたに繋がろうとしたのだ。

だから稽古もそれに見合ったものになっていった。
ふつうの日常の動きを深めていく。
誰もが生まれて死んでいく過程でする動きのなかに、歴史が息づいていた。
ふかめれぱ深めるほどエクスタシーは起こり、
他者に支えられているという実感があった。

私の足の下には死者達=歴史が息づいている。
歴史とは時間の流れではなく、身体のなかに棲んでいる具体的なもの。
私の身体は無数の他者によって生かされ、
そのことによって生は虚しさを免れる。
私には共同体も伝統の動きもないけど、
身体そのものと身体に棲む死者たちがいた。
それはむき出しの、エッセンスそのものの死者であり霊だった。

身体は突き詰めると、どうしても霊性の問題になってくるものらしいね。

それは身体という一つの座標軸の発見だった。
この太い座標軸を人間の営為に通せば、物事はずいぶん見晴らしがよくなる。

あくまでも具体的であることが大事だ。
身体論をいくら読んでも力強くはならないからね。

西洋における身体論は言説空間で終始している。
日本では昔から身体は具体性において思想されてきた。
私はこのような道筋で伝統と出会ったのだ。
伝統の外側の形でなく、深いところで歴史と他者と死者達とつながった。

今では足の下に何もないとは感じていない。
誰よりも確かなものを感じていると思う。
問題はそれを人と共有できないことだ。
社会性への道筋が見えない。
そのことによって私はつねに孤独である。

小林秀雄がどこかで歴史について、
「それは死んだ子どもを胸に抱く母親の気持だ」とか言っていたけど、
似たようなことだと思う。
身体そのものであることで、さらに普遍的だ。

自分の身体を通して歴史に属し、
自分の身体をとおして他者と出会い、
自分の身体を通して生の根拠へと至りたいものだ。
外側の形でなく、生成の層において歴史をとらえたいものだ。

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Author: 最上 和子
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