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現代詩と音声

3月29日(日)13時から、私の家で舞踏の通常稽古をします。誰でも参加できます。交通の不便なところではありますが、興味のある方は詳細をお問い合わせください。

この日は通常の稽古のあとに17時頃から、深澤紗織さんを中心に「現代詩と音声についての研究会」を行います。おおげさなものでなく、まず第一回目として雑談程度の問題提起の会になるでしょう。こちらも興味ある方はどうぞ参加してください。
 → 深澤紗織ポエトリーサーカス

この会をするきっかけになったのは、稽古に来ている現代詩人の深澤紗織さんが朗読活動をしている中で、困難な問題に突きあたり悩んでいることでした。現代詩の朗読は一時期はやりましたね。現代詩があまりにも書き言葉に偏重していることへの反省としてあったのだと思います。テレビでも放映されていたり、直接には白石かずこさんの朗読などを聴く機会もあり、私も少しは触れていました。その時の印象としてまず「男の詩人の朗読は弱い」「女性詩人の朗読でいいものは呪術的」という両極がありました。男の詩人は頭で詩を書いているのだなとつくづく思ったものです。女性詩人の呪術性はそれに較べると強い。でも私には違和感があった。「この人達は何かを古風に信じている。でも私にはそれは信じきれない」というものでした。この印象はずっと私の中にあったものらしく、深澤さんという若い世代が現代詩を朗読していることに興味を持ちました。私の興味は「現代詩の朗読って… そんなことできるの? 」みたいなものでしたね。日本に伝統的にある短歌の音読のようなものと違って、現代詩というのは日本の近代化の過程で西洋から輸入された言語表現であり、その特徴として、身体性と歴史性の喪失が根底にありました。あくまでも書き言葉なんです。なので朗読は絶望的に難しいわけです。音声というのは身体の問題であり、土地と歴史の問題だからです。それでもそれをどうしてもしたいという詩人の欲求は大切なものだと思いました。それは「根を持たない舞踏」という私の立場と同じだからです。私自身、伝統芸能とは違う「根を持たない創作舞踊」の困難に七転八倒してきました。ここから何が可能になるのか。歴史性をどのように見出すのか。身体性を言語活動とどう結びつけるのか。課題は困難なものですが、まずは悪あがきから始めたいと思います。

言語における身体の喪失というテーマはあまりにも深いものであり、単に近代化の問題のみならず、もっと遡れば、人類における言語の発生という問題に行きあたります。(ここで斯波さんのヲシテ研究との出会いがあったわけですが) 。それは西欧発祥の言語と身体におけるグローバリズム、の検証と脱構築という壮大なテーマにつながります。正直のところ手も足も出ないと感じています。なにしろ私達のすることは実践的でなくてはなりませんからね。。

さて私はこの研究会にのぞんで、YouTubeでいくつか朗読をチェックしてみました。いや〜 ネットはありがたい。いろんな朗読を聴くことができるんですからねー 驚いたのは短歌の葛原妙子の朗読、もっと驚いたのが与謝野晶子です。これは凄い。これを聴くと詩の言語の生きた姿を目撃するようです。あと文学ではないけど出口王仁三郎の肉声がすごい。もともと祝詞って音声のものであって現代言語とは違うものですが、こうして聴くと、現代語が何を失ってきたかをまざまざと知ることになります。同時に私達の、先祖回帰だけではない「獲得すべき言語と身体」の問題に行き着きますね。私個人ではどれほどのことも出来ないけど、力を集めて、わずかでもいいので何かを掴みたいと切に願ってます。

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トレード

言語外コミュニケーションと引き換えに得たモノが一般的な思考能力のような気がしてならないです。そうでない事を祈ってますが。
世の中には想像もつかない様な身体能力を持った人が存在するので、色んな方の話を聞いてみたいですね。

言語と思考

一読者様

私達は現代人なので、何と言っても言語と思考は大切なものだと思います。
ただ、何を失ってきたか、言語の発生とはなにか、といった問を忘れてはならないのだと。言語も言語外も大切と思います。

感覚的な技術の体系化

>私達は現代人なので、何と言っても言語と思考は大切なものだと思います。
>ただ、何を失ってきたか、言語の発生とはなにか、といった問を忘れてはならないのだと。言語も言語外も大切と思います。

やはり私は言葉苦手というか下手ですね、いやはや…
わざわざ書いていただいた事は、繰り返しこのブログで述べられている主旨そのものだと思いますし、非常に共感します。
が、気になるのはその先でして。高度なレベルで言語外を追究したとき、果たしてそれは言語化(体系化・方法論化)が可能なのか?二律背反的なカタチであっても成立するのか?その辺りが気になるわけです。そういう意味では合気道なんかが比較的高度にそう言ったことを上手く成立させているように思いますが、やはり達人の動きは何かが違う。その差が、いわゆる言語によって埋めるには絶望的に開いているように感じるのです。

体系化

一読者さま

体系化が必要だとあまり感じていないんですよ。できるのならしたほうがいいでしょうけど。いずれ誰かがするのかも知れませんが。
武術や神智学や瞑想など、古来から方法は探求されていますし、やはり日本の武術はなんと言っても時間をかけて方法が蓄積されている。
私は体系化というより、可能性を求めるという程度の考えです。なにしろ得られるものがあまりにも少ない。だから絶えざるプロセスでいいと思っています。

達人の動き・・ということですが、身体に限らず突出した存在はいつの時代も少数で、その人達は個人の資質や努力によるものが大きい。たとえ体系化しても「方法を知っている」ことと「それが出来る」こととはずいぶん違うんじゃないでしようか。最後は個人になってしまうのかも。ただ私が求めているのは達人になることではなく、まずは身体の手応えを知ること、そして従来の瞑想や武術やボデイワークではない「踊る」という行為の原初性の探求ということなんです。私にとって踊るという行為はあまりにも魅惑的で、それをわかちあう人がいれば嬉しいのです。
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Author: 最上 和子
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