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個人であるということ

最近思うこと。
私の舞踏とその稽古方法は、よく瞑想に似ていると言われる。
瞑想をやったことはないし、自分のしていることが瞑想的だと知ったのは、
ずいぶん後になってから。

瞑想に似ているけど実は瞑想とも全然違うんですね、
と、先日生徒さんから言われて嬉しかった。
そう・・・ほんとはかなり違うんだよね。

どこが違うのかと言うと、まず「動く」ということだ。
ある非日常的な変性意識に入りながらも、動きにしていくことによって、客観性を要求されるから、
瞑想特有(らしい)の観念的な思い込み、魔境、に陥ることはない。
動きにしていくのには、自己コントロールが要求されるので、陶酔しながらも醒めている必要がある。

表現という行為は、自己をひとつにまとめあげて、その自己を、
ひいては人間ぜんたいを、未踏の土地に連れ出す。
そして人間の地平を拡大したり深めたりするものだ。
ただ悟ったり解脱すればいいと言うものではない。
ただ楽しい・面白い、きれい、というのとも違う。
社会性も重要な要素だ。
彼岸に渡ったとしても、再び現世に戻って汚濁にまみれる。
この戻ってくる道筋に芸能の力がある。
彼岸と現世の日常とが別のものではないと認識する、
そしてなんらかの人間の能動的行為に及ぶ。
それが芸能だ。

だから瞑想的なものは入り口にすぎない。

それともうひとつ、
身体表現について、なかなか理解されないことがあるな、と最近わかった。
ただ見事に踊るというのと、表現の違いは何か。

近代以降の表現行為は、個人から出発する。
いわゆる作家という存在。
集合的匿名性によって作品が作られた時代を私達は生きていない。
近代的自我をいくら批判しても、私たちは近代的自我からしか始められない。
このことの痛みは大きい。
学者なら近代を批判して済むかもしれないが、
創作する人間は、その時代の限界を生きなくてはならない。
(近代的自我という言葉もこんにちではズレがあるけど、ここでは便宜的に使っている)

創作舞踊以外の面白いパフォーマンスはいっぱいある。
伝統芸能や、宝塚や、見世物小屋や、ストリートダンスや・・
それらと創作表現の世界の違いは何か。
このことがとてもわかりにくいのだと、稽古場の生徒さんと接していると感じる。
インプットされた情報が多くて、大本が見えなくなっている。

表現とは「自分という個人」から出発する。
自分がどんなにちっぽけで、つまらないこだわりを生きているとしても、
いまわしい近代的自我にしか入り口はない。
外側にどんなに素晴らしいものがあっても、それは自分ではない。
ちっぽけな自分から始めて、ちっぽけでない大きな世界に出ていくのだ。

人間にとって、自分と向かい合うことはもっとも難しい苦しいことだ。
だから大半の人間は、自分の外にある気晴らしで一生を費やす。
それが膨大な量の読書であっても、高尚な芸術であっても、基本的には気晴らしでしかない。
どんなに素晴らしいものも、そこに自分を投入しなくては、自分の血肉にはならない。
自分が生き、自分が死ぬ時、外部のものは力にはならない。

踊ることは最高に官能的な行為だけど、
それが表現である限りは、楽しいだけではない、自分との闘いがある。

大野一雄さんは、舞踏するには「楔=クサビ」が必要だ、と言っている。
クサビとは、吸血鬼の体にうちこめば絶命するアレだ。
その人間にとっての致命的な何か。
身体の奥深くある「存在のタネ」みたいなもの。
それを白日のもとに晒せば、自分というひとつのまとまりは崩壊する。
そういうものを相手にしないと表現はできない。

最終的な深い領域まで行ける人間は少ない。
そんなことまで求められるのでは、自分は舞踏なんてしたくないという人もいるだろう。
私はそれでいいと思っている。そこまで行かなくても。
すべての人間が究極まで行く必要はない。
だけど表現とは、本来そういうものだと知らなければ、途中までをも行くことは出来ない。
誰にでも芸術はできる、みたいな発想ではできない。
努力も苦悩もなく出来るものは芸術でも表現でも芸能でもない。

一人では行けない場所に、複数の人間で行ってみたい。
いい意味での役割分担が大切と思う。
人間は弱い。100%の孤独を生きられる者はいない。

自分のクサビをどうやって見つけるか。
具体的な方法があるわけじゃない。
ただ人生に躓いたり、稽古したり、そういうことを丁寧にしていくしかない。
稽古場の他者を自分の鏡にして。
稽古している時だけは、魂が洗い出される、そういう場所で稽古場はありたい。
稽古場では、他者のむき出しになった魂に立ち会うことができる。
それも大げさでなく、ムリのないかたちで。とても静かに。
ふだんの生活では決して見ることがないものだ。
そしてひとりでは自分と向かい合うことが出来ない者も、
ひとつの場が実現してくれるものがあるかもしれないのだ。
最初から自分が見えている者はいない。

  人は誰でも、
  気がつけば荒野にただひとり・・・
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モノの霊

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前回、モノを使った稽古をしたら、
生徒さんが「面白い、もっとやりたい」と言うので、引き続きやっていく。
この稽古はかなり演劇寄りだと思うけど、実は踊りにも深く関係する。
モノが日常でのただのモノを越えて、自分の体の延長のようになっていき、
最後にはモノの霊に出会うところまで至りたいと願う。

モノと関わることにより、モノを通して自分の身体を見出していく。
ちょうど剣術する人が、刀を通して自分の身体を獲得していくように。

またこれはアニミズムでもある。
人間の子どもにとってぬいぐるみはただのモノではない。
それは自分の体の一部だし分身だ。
踊りでは同じようなことが起こる。
モノは命のないシラけた物体ではない。
モノと身体がつながる時、それを外から見ていても、まるで生き物のようになっていく。
ときには生きているものより迫力があって怖い。
生物と無生物の区別がなくなっていく。

それが楽しいかと言うと、すごく楽しい。
大のオトナがじゅうぶん遊べる。
わずかなトランス・変性意識という方法によって。

まなざしのレッスン

私は稽古が大好き。楽しくてたまらない。
公演のための稽古でなく稽古それ自体に意味がある。
メソッドのない踊りだけど、なんとかいい方法はないかといつも悩んでいる。
ひとつの場をわかちあって、
稽古の時間帯だけは自分の身体と真剣につき合い、
浮世の義理を忘れて、身体を通して他者と向かい合う。
こんなに楽しいことがあろうかい。

前回の稽古では、いつも必ずするスローという稽古に、
(なんのことだかわからない人もいるでしょうけど)
「まなざしのレッスン」というのを加えてみた。
これがなかなか面白かったので、あらためて「眼差し」について書いてみたい。

舞踏している時の眼差しについて、よく質問される。
「どこを見ているんですか?」とか「不思議な目」とか。
それは日常生活における目の使い方とは違う。
日常においては人は対象物に焦点をあわせる。
水を呑む時にコップを見るというように。
次から次へと対象物を見る。
その連続で日常生活は成り立つ。

舞踏においては目は焦点を結ばない。
だから目つきが茫洋としていて、ガラス玉のようであったり、
動物や、人間の赤ちゃんのような目つきに近づく。
焦点が合ってないで、目線が霧のように散らばる。
これは武術家や狩猟者の技芸と同じだと思う。

目の焦点をあわせると対象物はよく見えるが、
対象物以外は除外される。視野が狭くなり全体が見えない。
顔つきの印象としては近視眼的というか、こせこせした顔つきになる。
焦点を合わせず目線を散らすと、
空間の認知がとたんに大きくなり全体が視野にはいる。
その全体のなかに対象物がある。
対象物に焦点を合わせなくても対象物はちゃんと「見えている」
全体と対象物の両方が等価に見える。
地と図の両方が同時に見えるということです。
あるいは対象と自分との距離感の消失。
世界は前面に見えるだけでなく、身体のまわり360度に感じられる。
そこに自分が溶けこんでいる。
これはアニミズムにもつながる眼差しだと思う。

この「見えている」というのがキモだ。
「見る」のではなく「見えている」
主語が希薄だ。
この違いは大きい。
体の印象まて変わってくる。非日常化されるのだ。
言葉を変えれば体が「大きくなる」
いい役者は舞台に立つと体がおおきくなるという、アレですね。

この「見えている」状態になると、日常の拘束を逃れて、
伸び伸びとしてうっとりしたいい気分になる。
この視線以外にも日常を逃れる他の身体技法があり、
それらを動員して、舞踏の身体は非日常化され、
ついには聖性にまで至ろうとするわけです。
なかなか出来ませんけど。

具体的にどうするかというと、
それは稽古に来てみて欲しいです、門外不出、と言いたいところだけど、
ここでひとつふたつヒント。
まず目の前中央や対象物を見ないで両脇を見る。黒目のあいだを広げる。
あるいは、モノでなくモノの周りの空気をじっと見つめる。
何もないところをじっと見るのがいいのです。
しつこくやっているとクラクラしてきますよ。
これが現実原則の崩壊のはじまりです。
ここから先を知りたい人は稽古に来ましょう(笑)

眼差しのもうひとつの側面、
それは自分が「見られる」側になった時の状態。

ふつう芸能者は自分の技芸を人に「見せる」
なんとか魅力的に見せようとする。
だけど舞踏は「見せる」のではなく「見られている」という状態で踊る。
見せるという要素も当然あるのだが、
それはあくまでも「見られている」の基本の上に成り立つ。
この違いも大きい。
「見せる」には媚びたところがあるので品格が落ちる。
それに目的意識的なので、芸がちんまりとしてくる。
「見られている」だと品格がある。
これはなにも気取って上品ということではない。
例えて言えば動物の気品のようなもの。
「別に他人に媚びなくても私は確かにここにいる」という存在の仕方だ。
体も大きくなるし存在感も出てくる。

これらは、わかっていても日常生活をしているうちにすぐに忘れる。
どうしてもこせこせして来る。
だからこそ繰り返し稽古して、体にインプットし続け、
スイッチをいれればいつでも、眼差しをチェンジできるようにするわけです。
面白いよ〜。
ものの見え方が瞬時に変わるし、気持に余裕が出来る。
たいていの訓練を積んだ技芸者は無意識のうちに、これをしていると思う。
舞踏では意識的に稽古して、
例えベテランでなくても一瞬にして世界が違って見える、という幸せな経験をしていく。

眼差しについてはまだまだ書くことがあるけど、いずれまた。
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Author: 最上 和子
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