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聖痕と擬態

聖痕という現象がある。
もともとはキリスト教の文脈で語られる現象のようで、
キリストが磔刑になった時に、手の平やその他の部位に出来たのと同じ傷が、
熱心な信者の体にも現れるというもの。
スティグマともいうけど、この言い方の場合は、
もっと一般に犯罪者や奴隷に烙印されたタトゥをも意味するようだ。

聖痕は、熱烈な信徒の手の平に穴があいて出血したりするもので、
これは歴史的にかなりの例があり、その原因は不明ということらしい。
作り話だという人も多いけど、全部がウソということもなさそう。
キリスト教において現れるのはなぜか、他の宗教には現れにくいのはなぜか。
これも面白いテーマだと思う。

聖痕はウソがホントか。
もちろん作り話の場合もあるだろうけど、私は実際にもあるのだと思っている。
それは身体の内部と外部という私のテーマにもつながる。

私の稽古でミミクリダンスというのがある。
ミミクリ(擬態)とは昆虫が周囲の環境にあわせて色や形を変えるもので、
木の葉の上では木の葉そっくりになり、見分けがつかなくなる、という誰でも知っている現象だ。
敵から身を守るためと言われている。

ミミクリダンスとは例えば、
木の幹に抱きついて軽い変性意識に入っていくことで、木と一体化する、
というようなことをする。
木でなくても、壁とか床とか石とか、なんでもいい。
自我意識を希薄にしていくことで、周囲の環境に溶け込んでいく、
という私の稽古ではふつうのことだ。もちろん完全に出来るわけじゃない。
ちんぷんかんぷんで「これで出来ていることになるのかな?」
という曖昧な状態から、かなり深い状態まで段階はある。
うまく行けばほんとに事物に溶けてしまい、ものすごく気持いい。
エクスタシーと言ってもいい。
外から見ていても、その人が「溶けている」のがわかる。
人間の輪郭が消えてしまう。

ある時、室内でこの稽古をしていて、ある人が壁の前で動いていて、
なぜかゴキブリにそっくりになったことがある。
壁にへばりついていたということもあって。
もちろん見た目がゴキブリに変身するというような、CGみたいなことではない。
そこにいるのは人間ではあるのだけど、でもゴキブリだと感じさせる。
気配が似ていると言えばいいのだろうか・・ ゴキブリオーラが出ている。

稽古が終わってから感想を聞くと、
私だけでなく複数の人が「◯◯さんはゴキブリになっていたよ!」と言う。
本人に聞くと「昨晩、部屋にいたゴキブリのことを、稽古中ずっと考えていた」と言う。
他愛もないエピソードだけど、私はこういうことが忘れられないたちだ。

これは簡単に言うと、
自我意識が薄くなった状態でイメージを強く持つ、という内的行為が、
外的にも実現する、ということだと思う。
聖痕とはこういう現象ではないかと、私は思っている。
本来イメージとはそれくらいの力がある。
身体の内部の力=身体の外部的表出 という現象がまれに起こる。
舞踏は本来はそういうところに成立する。
実際には完全には出来ないが、それに近づこうとしている。

昆虫の擬態に話を戻すと。
昆虫は身を守るために周囲の環境に形を変えると言うけど、
昆虫は自分を外から見て、いろいろと操作しているわけじゃない。
人間がCGを操作して調整するような行為とはまるで別のものだ。
CGは自分のしていることを客観視できる。
昆虫の場合、ただそのものの上に乗っかるだけで、どうしてそのものの色や形になれるのか。
自分が木の葉そっくりになったことをどうやって認識するのか。
自分を外から見ることはできないのは、すべての生物に共通している。
生物はまず第一には、内的に存在するしかない。

私はこれは、稽古の時に、ある人がゴキブリを強くイメージした時に、
ほんとにゴキブリに似てしまったのと同じ現象ではないかと思う。
もちろん科学的証明など出来ないが。
木の葉の上に乗った虫は、全身で強く木の葉の色や形を感じとっているのだろう。
自分を失うほど、あまりにも緑にまみれたので緑に染まっていく。
色だけでなく匂いや質感や波動に自身を投げ出しているうちに、そのものになっていく。

同じように「キリストの犠牲」を強く感じた人に聖痕が現れる。
内部が外在化するという、
たぶん生命体にとっての普遍的な現象ではないかと思う。
もともとは行為とはそういうものだったのではないか。
人間は内部というものを、道具を使って代理的に外在化するという文化文明行為を、
積み重ねてきたので、もともとの内部の力を見失ったのではないか。
宗教的情熱は時に異様なエネルギーを発揮するから、
例外的にこのようなことが起こるのではないか。

外界と関わるという行為が、もともとは全身的で内的なものだったのが(アニミズム)、
例えば、その一部を「視覚として見る」という行為に分断し特化して、
やがてはカメラによって、自分の目の代理をさせていく、といったふうに変化してきた。

内部にある無形の情報を、部分に分けて(五感)、道具の力で肥大させてきた。
内部にある音楽を楽器を使って外的に代理行為させて、増殖させて、音楽を生み出した。
それが悪いというのではなく、
(実際そのことによって世界は豊穣にもなってきた)
そのことによって本来の内部を無力化して来たということ。

聖痕とか昆虫の擬態とかは、もともと多くの生命体にとって可能な力だったのだと、
そう思えてならない。
稽古ではそれを、ささやかに取り戻そうとしている。
たいしたことはできないけど、ささやかでいいのだと思う。
何事も極端におこなうと間違える。
現代社会に市民としてふつうに生きている、という事実=歴史性を見失う。

大切なのは、それが気持ちいい。エクスタシーだということだ。
この気持良さは、現代によく見られる、ヒステリックな刺激に対する反応とは違う。
全身的な陶酔。ムリがなく、
陶酔よ醒めないでとしがみつくようなものでもなく、
すんなりと体に浸透してくる。
ちょうどムリなく深く息が出来たときのような、
いい感じなのだ。
身体はまだこういう知恵を残していてくれた、と思う。

昆虫が擬態をしている時は、どうやらエクスタシー状態にあるらしい。
と何か科学系の本で読んだけど、頷ける。
だって稽古でミミクリしている時はエクスタシーだからね。
きっと昆虫だってそうなんだろう。
自分以外のものになりきるのは気持いいものなんだ。
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若い女性は・・

私の稽古に参加する人で若い女性は、まずいない。
ふつう踊りの稽古場って参加者は女性が多いけど、私のところは男性が多い。
男性の年齢層は若い人から年配の人までいろいろ。
だけど女性の参加者はだいたい40才くらい以降がほとんど。

この話を、舞踏ではないが、ある身体関係の稽古場をしている人にしたら、
「私のところも同じです。若い女性は来ない。男性は若い人も来るのに」
と言う。
どうやら普遍的な現象らしい。
ふつうのダンス教室なら若い女性は多いだろうけど。
身体そのものに取り組もうとするところには、若い女性はいない模様。

これは面白い現象だな。
男性のほうが女性より、身体に対する危機意識が強いらしい。
それは男性は、自分の身体が評価されることが少ないことと関係ありそう。
男の身体なんて味気なくて評価に値しないらしい。
男の身体なんて、ただ働くだけの、経済効率だけの、評価しかされない。

若い女性というのは、私のような者でも経験あるけど、
ただ体が若いというだけで無条件に存在を評価される、特別な存在だ。
男性はその若い女性を手に入れる力量を問われたりする。
男性は女性より社会性が強く、身体を排除して生きざるを得ないので、
絶えずアイデンティティの危機をかかえている。
男性はナルシズムに逃げ込むことが許されていない。
若い女性はほぼ全員近くがナルシストだ。

女性は、若さが失われ、無条件に自分が価値あるとされる時期を過ぎると、
やっと自分の身体に目覚める。
若い時はいかに自分の身体を魅力的に見せるかにエネルギーを注いで、
身体そのものに気がつかない。

こうして若い女性はチヤホヤされるぶん、身体に鈍感になっているらしい。
でもまあ、それも仕方ない。
若さが過ぎれば評価されなくなると、わかっているから、
せめて今を楽しもうと若い女性は思いつめるわけだ。

私が思うのは、
男も女も外側の価値でなく、内的価値に目覚めないと、
つねにアイデンティティの危機を抱え、
承認欲求でがんじがらめになるだろう、ということだ。
男は経済力、女は容姿。
この価値観、どうにかならないものか。

以上、とりとめもなく。

ニジンスキーのカラダ

ニジンスキーについては何回か書いた。
私にとって気になるダンサーは、彼と大野一雄、のふたりだけかもしれないと思う。

ニジンスキーの体は写真でしか見ることは出来ないけど、
当時の他のダンサーの写真とくらべても、その違いは歴然としている。
私流に言うと「分裂病の身体」だ。
分裂病の身体には深淵があり、人間としての最後の一線を越えてしまっている。
人間が解体している。
大野一雄の身体にはそれを感じたことはないけど、別の意味ですごい。

ニジンスキーは筋肉質で、有名な太ももの筋肉を見るとわかるけど、
体の中の力のベクトルがバラバラの方向を向いていて、
それを無理矢理にひとつにまとめあげているために、
体がブロンズ像のような重い塊になっている。
彼がまだ若かったことを思うと、時間をかけて獲得した身体ではなく、
若さの力でねじ伏せた身体なのだ。
だから彼が発狂しなかったとしても、そのダンサー人生は短命であっただろう。
彼が舞台を務めたあとは、まるでボクシングの試合後のように荒い息で、
立っていられないほど消耗しきっていたと言う。

私はずっと、ニジンスキーの身体が気になっていた。
天才だからすごい、ということだけでなく。
彼の身体の存在感は、その後のバレエ史上に現れたどんな天才をも凌駕している。
と言うか、ニジンスキーの体はそもそもバレエではない。
西洋のなかの異物だ。

アジア圏でのすぐれた舞踊家には、たぶん、ニジンスキーのような深淵はない。
少なくとも私は見たことがない。
それはたぶん、アジア圏の伝統世界の舞踊家には、彼を支える伝統や共同体があるから、
深淵を見出す必要はなかった、ということだろう。
そこまで自分を追い詰める必要がない。
そして伝統でなく創作舞踊の世界には、最初から身体性は希薄だ。
西洋の後を追いかけているだけだから。
他人の褌で相撲をとっているうちは、深淵など現れようもない。

そう考えると、ニジンスキーの身体の深淵はヨーロッパ特有のものなのかも知れない。
深淵と言えば、ハンス・ベルメールの人形にはそれがある。
彼の人形は「認識」の世界のものだ。
彼以外の手になる人形にはそれがない。
日本の球体関節人形は工芸品であり「認識」はない。

分裂病の身体とは「認識の身体」ということになるのかな。
そして身体とは究極、認識のもんだいなのか。
ニジンスキーもハンス・ベルメールも、その認識のありようには安定感がない。
ヨーロッパにおける認識の伝統の頂点に位置して、しかも頂点が砕けてしまった感じだ。
ニジンスキーもベルメールも、言説世界で閉じていない、
身体と人形という具体性の表現者だ。
認識とは、最後には具体性の問題になるのではないかと思う。

日本の身体でも金春禅竹には深淵があったのかも、と思うことがあるけど、
それはここでは触れないでおく。私の手に余る。

ニジンスキーの身体の深淵が気になり「すごい」と思いながらも、違和感があった。
それは彼の体の「重さ」だ。
現代では重い身体には違和感ある。
現代は軽くて「浮いている」身体が求められていると思う。
この場合の「軽い」「浮く」とは悪い意味でなく、武術で言う浮身のようなものだ。
重力と正しく関係を持つことによって「浮く」体。
一度土地から離れることによって新たに土地と結ばれる体。
宇宙に出た人類が、地球に帰還して、再び重力を見出すような。
他者として故郷を見出すような。

これは単なる思いつきではなく、ひとつの思想であると思う。
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Author: 最上 和子
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