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ブロードチャーチ・殺意の町

→ ブロードチャーチ 殺意の町

これはテレビドラマ用につくられたイギリスのミステリー。
全部で8時間に及ぶので、映画1本よりずっと長いのだけど、
冗長な感じは全くしないし、見ごたえがあり、
ドラマを見るという重厚な時間の快楽を堪能させてくれた。

ブロードチャーチという海沿いの小さな町で、少年が殺害される。
すべての住人が顔見知りである閉ざされた田舎町での殺人事件、
という珍しくもない設定なんだけど、とにかくじっくり見せてくれる。
イギリスのドラマによくある地味な作りで、
海沿いの崖の上にある町の風景の素晴らしさ、ストーリーの意外性、
ありきたりの人間、の内的世界の奥行きの深さ。
これぞオトナのドラマだ。
女優さんもチャラチャラしていなくていい。
日本の刑事物みたいに、刑事役の女優さんがロングヘアーをなびかせて、
つけまつげバッチリとか、そういうペカペカしたのは好きじゃない。

イギリスのドラマの人間の描き方には、いつも感じるんだけど、
シェイクスピアの世界に通じる、演劇性があるように思う。
アクションもあるけどそれ以上に、佇まいで人間を見せるというところがある。
どんなに劇的な出来事があろうともおかまいなしに人生は日常としてどこまでも続いている、というオトナの認識。
犯罪があろうとなかろうと日常は同じに続くものだよ、という、
カタルシスなき日常のちからを淡々と見せつける。
こういうところにいつも痺れる。
大げさに観客を驚かせようというところがなく、
つまらなければ見なくていいよ的な、堂々たるドラマの佇まい。
日本でそれをやったら視聴率ガタ落ちになりそうだ。
演劇の伝統が観客を鍛えているのかと思った。
観客を信頼しているのだろうな、羨ましいな。

海外のミステリーを見る楽しみのひとつが、
土地の固有性と結びついた人間のドラマがあることだ。
土地と人間の佇まいが一体になっている。
犯罪という人間の本質が、土地のなかに亡霊のように浮かび上がる。
人間のドラマが「土地」に呼吸を促しているかのよう。
ただ眺めているだけの風景としての土地ではなく。
植物が土地ごとに、その生態に固有性があるのと同じ。
生命とは土地の亡霊なのかと思う。
ネット時代のグローバル時代の均質の世界に、
こんなにもローカルな土地が生きたものとして感じられるのは、実に楽しい。
画面を通じて土地の空気が伝わってくる。

ストーリーについてはネットで検索出来るので、
ここでは私に強く印象に残った場面について書いてみる。

少年を殺害した犯人が逮捕され、ドラマは終盤になる。
夜になって、断崖のうえに村人が集まり死んだ子どもの魂を送る。
よろめきながら嘆き悲しむ母親。
村人は無言のうちに松明をかかげる。
花束(だったか子どもの遺品だったか忘れた)を海に投げる。
・・・この場面が素晴らしかった。
形として完成された儀礼でなく、まだ生々しい魂の領域での葬送の儀礼であった。
やがて遠く離れたあちこちの場所から、闇のなかにポツリポツリと静かに松明の炎があがる。
それを見て胸を突かれる母親。
村全体が顔見知りだった少年の魂を送っていた。
まるで木霊が響くように。

こんな美しい場面をテレビドラマで見るとは思わなかった。
そして、この場面で、
水と火のちからが鎮魂には必要なのだな、ということを感じた。
人々の沈黙と、
断崖の上から見おろす深い水底と、
かかげられた松明とで、
たしかに魂は送られた、と思った。
火と水と沈黙の霊威によって。
突然古代が出現したかのようだった。
死者を送るという行為が、時空を越えて断崖の町を古代へと運んだ。
そこでは人々は死者と一体になって、
自分の魂のありかを、はっきりと感じていたのではないか。
魂は死者とともに彼岸へと運ばれたのだろう。
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小野修さんの「文学と音楽」CD発売中 !



知人である小野修さんの「Literature&Music」というCDが全国流通で発売になりました。
Amazonで購入できます。
  → Literature&Music
試聴はこちら
  → 小野修1stアルバム「文学と音楽」 


かなり前になるけど、小野さん企画のライブ「文学と音楽」を聴きに行った。
その時の感想を書いたものをここに掲載してみる。
 
「昨年から私の稽古に参加している詩人の深澤紗織さんの、魅惑的な声を聴いてきた。
文学の名作の言葉にメロディをつける、という無謀で地味な試み。ふつうから言ったら、文学の言葉にメロディをつけるってあり得ない、と私なら思う。文学の言葉って自立していると思い込んでいるのかな。黙読が当たり前になってる。
このライブのメロディの付け方は無理がないところでととどまっていて、文学の言葉が今まで感じたことのないみずみずしさで立ち上がった。朗読でもない、歌にもなりきっていない、その不思議な成り立ちが、どう表現していいのかわからない世界だった。
言葉に音楽がついたことで、黙読が当たり前の文学の世界に、朗読とは違う光があたったように思った。黙読という「目の疲れ」がほぐれたのかな。派手に何かをたちあげるというより、小さな光が闇にともったようで、いい時間でした。
 ・・・うん、そうそう、、言葉が囚われの網から解き放たれて、空間に泳ぎだして来たような感じ。水の中のお魚みたいに。」

それは確かに新鮮な体験だった。
今ここで、その時の作品がCDになり、
このような無謀な試みがひとつの形になって世に出たことを、私はこころから喜ぶものであります。 


コメントが消えてしまいました、ごめんなさい。

昨日の私のシンゴジラ評に最初にコメントをくださった方、
お返事を書こうとして、私の操作ミスでコメントが消えてしまったようです。
(Hさんです。お名前を出していいのか迷ったのでHさんとします)
大変申し訳ありません。

この場でお返事します。

感想ありがとうございます。
私はあの映画で、3・11を思わせる瓦礫の山を見たとき、
なんとも言えない気持になりました。
あの光景をこのようなやり方で導入していいのだろうか。
どうしてこんなことが出来たのだろうと。
それなりの覚悟がなくては描けない光景ではなかったのか。
あの光景に匹敵する虚構を構築しなくてはならないのではないかと。
それを見て拍手喝采できるのはなぜなのだろう。

少数派でさみしい限りですが、
ちょっと迷って、やはり書くことにしました。
あの映画を楽しんでもよいのでしょう、たぶん。
でも楽しめない人もいるのだと、私はどうしても言いたかったのです。

あなたの感想を読んで、書いてよかったと思いました。
ありがとう。感謝しています。
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Author: 最上 和子
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