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満開の桜の下



満開の桜の下には死体が埋まっている、という有名な言葉。
誰でも知っている言葉だけど、実感できてる人はどれくらいいるのかな?
気のきいた文学的な言い回し、として知っているだけかも知れない。

ウチの庭にむかし植えたスノーフレーク。
スズランの花に似ている。
球根ものなので肥料をあげないと花が咲かなくなる。
肥料あげてなかったので10年以上も咲かなかった。
葉っぱだけチョロチョロと出ていた。

それが今年はどういうわけが急に咲き出した。
不思議に思っていたけど、あることに気がついた。

昨年の夏の朝、道端にあったカラスの屍体を拾って庭に埋めた。
(葬送の儀礼というタイトルでブログにも書いた)
スノーフレークの植わっている場所のすぐ隣に埋めた。
写真ではグレーのレンガが置いてあるところ。
そのカラスの屍体が土に還り、それが栄養になって、
今年のスノーフレークを咲かせたのだと気がついて、胸を突かれた。
そうだったんだね・・
当たり前の現象なんだろうけど、うれしいやら悲しいやら。

カラスの屍体が元素に還って、それがスノーフレークを養った。
リン=Pとか窒素=Nとかになって。
こうやって循環するんだな。
死ねば腐る、というのはいいな、なんて思う。
腐らなかったら命は循環しないのか?
火葬して灰になったら循環しないのか? どうなんだろう?
墓にはいっちゃったら循環するわけないね。

私はよく「踊っている時に死の体験をする」と感じているんだけど、
それって比喩ではないと思ってる。
体験しているのは死のシュミレーションではなく、死そのものなのだと思ってる。
どうしてそう思えるのかを説明することは出来ない。
ただ確信している。
こういうことは本来説明したり証明したりは出来ない。
死は遍在していて、もっと正確に言うと、それは死ですらない。
生と死の区別のない領域。力の領域。
強度で目がくらむ領域。
私は生命の循環というものを、
どこか物悲しい諦観のように考えることが出来ない。
もっとダイナミックなもの。非情なもの。
人間臭くないし、お涙ちょうだいでもない。
エネルギーのかたまりのように感じている。
見えない領域が、スノーフレークの花となって、
私の目の前に迫ったと思った。
そのウラには怪物がいると思える。
踊りは力強い。見えない領域から力を引っ張ってくる。
力は純粋で非情だ。踊りは人間くさくないほうが美しい。
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日々雑感

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このところブログが滞りがち。
twitterを始めたせいかもしれない。
ブログの読者は顔が見えないので、
「一体これ読んでる人いるの?」という気持がどこかにあるのに比して、
twitterでは直接顔をあわせなくても知り合い感を持ちやすい。
実際ステキな知り合いも少数だけど出来たし。
でもブログを通じてしか知り合えない人もいる。
だからもっとブログを書こう。
書くことは山ほどあるのよね。

先日、例によって神社での早朝稽古をした。
霊気の薄いさびれた神社だけど、公園より稽古しやすい。
私は神社は好きだけど、由緒とか縁起とか、聞いてもすぐに忘れる。
ただ空間さえあればいいみたいな感じで関わっている。

参拝してから稽古に入る。
「稽古いたします。どうぞよろしく。そしてありがとうございます」という気持。
これがなかなかいい。
稽古の導入としてとても気分がいい。
正式な参拝の型もろくに知らないので、
舞踏の稽古もかねて、丁寧にお辞儀するだけなんだけど、
最近ではお辞儀すると途端に意識が飛ぶ。
気持がよくて頭がぼうっとしてうっとりして身動き出来なくなったりする。
以前はそういうことはなかった。

武術の本で、
「お辞儀には身体技法が詰まっている。お辞儀をすると体が自動的に浮身になる」
と読んだことがあり、それはこういうことなのかと思った。
丁寧にお辞儀すると、体の中の動きがよくわかるんだよねー
軸が整い、背骨や腰の内部が精妙に動く。
そして動きのある時点で体がピタッと止まる。うっとりする。
これが素晴らしい。
これが稽古の導入になり、息が整う。

最近は古武術系の人と知り合いになる機会が多く、日本武術の人って独特の清潔感がある。
私には西洋型ダンサーの知り合いがいない。
なんだか肌が合わないらしい。
日本武術のひとって清潔でありながら、一流の人ほど怖さがある。血が濃い。
その血の濃さは身体と結びついている。
これが西洋人だと、同じように濃くてもどこか観念的で身体性が薄く、
理屈で体ができているような感じで、それもまた面白い。

というわけで近所にさびれた神社があって良かったな、という話。



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ニコライ堂

昨日は5月の東京巡礼に向けての初回打ち合わせを、お茶の水で。
舟で運河を渡る企画なので、今回は綿密な準備が必要なのだ。
深川や日本橋のあたり、江戸文化が色濃く残っている魅力的な地域だ。
なんでも江戸の庶民達が日本橋あたりで踊り狂ったりしたらしい。
踊ったのは遊女が中心だったという資料もある。
時間を越えて今度は私達が踊るってわけ。
まぁ あくまでも静かに地味に、だけどね。
現代地図と古地図を並べて、DVDを見て、あれやこれやと話し合う。
その内容については割愛。
そして打ち合わせが終わってから日本橋に出る。
私は東京生まれの東京育ちでありながら、東京については何も知らないので、
これを見て興奮してまった。

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すばらしいデザイン。こんなものが街なかにあるとは嬉しくてならない
そして陸地なのに、なんだかあちこちに水の気配がするんだよね。
空気がじとっと湿っている。足の下に水を感じる。
自分の歩いている街が、歴史の重層的な時間のなかに放り込まれる。
うっとり。
しかもすぐそばには運河。橋。ビルのあかり。夢の中にいるようだ。
もうこれだけで「行っちゃいそう」

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・・・さて本題。
打ち合わせの前に、新お茶の水の駅内の例の長〜いエスカレーターを昇りながら、
ふと思いついて私は「舞踏状態」をやってみた。
深くはいるとその場で踊りだしかねないので、ごく軽度に。
するとまるで別世界。
エスカレーターの昇る先がどこまでも上まで延びていく。
その上昇感が気持よく、上方に吸い込まれるようだ。
これはいい。
これからは街なかで時々「舞踏状態」やってみようと思った。

駅を出てニコライ堂のほうへ歩いてみた。
すると運良くニコライ堂の鐘が鳴りはじめた。
カーンカーンという音でなく(ご存知の方いますよね)
活字には置き換えられない、なんともいいようのない優しい律動なのだ。
それがかなり長い時間つづく。
私は立ち止まり聴き入っていた。
そこでまた「舞踏状態」をやってみた。
音の聴こえ方が変わる。
鐘の音色は空気のなかを上昇するのでなく水平方向に、
あるいは空間を包み込むように、霧のようにひろがっていった。
そして私の体の背面にまわり、背骨を伝って尾骶骨でしばらく渦巻き、
脚の後ろ側をおりて、やがて地面に吸い込まれていった。
ニコライ堂と私の静かでいきいきとした関係、とてもいい時間だった。

「舞踏状態」
これはいい。
空気がなまめかしく息づき、生が一気に深くなり、世界が大きくひろがり、恍惚がやってくる。
折に触れこれをやってみよう。軽度からかなり深くまで。
急ぎの用事でもないのに、なぜかせかせかと道を歩いてしまう時など、
これをやるとすぐにうっとりとして余裕が持てるよ。
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Author: 最上 和子
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