ギリシャダンスを見て・ 土地とダンスの関係
見たといってもテレビで見ただけ。
(ギリシャ映画では見たことある。アンゲロプロス監督のものだったか)
豊川悦司さんが、ギリシャ文学「その男ゾルバ」の本を片手に、
その小説の舞台となったクレタ島をおとづれ、土地の人達と酒をくみかわす、
みたいな内容の番組だった。
「その男ゾルバ」はアンソニー・クイン主演で映画にもなった有名な小説。
バイタリティあふれる、汗の匂いがムンムンする、土地の力を体現するような男の話らしい。
映画「その男ゾルバ」では、最後に主人公達がギリシャダンスを踊る場面が重要なのだそうだけど、
この映画を私が見たのは大昔で、肝腎のその場面をおぼえていない。とほほ
このテレビ番組でも、最後にトヨエツが土地のおじさんと肩を組んでギリシャダンスを踊る。
このダンスがいい。
いかにも土地に根づいた、土地の匂い、土地の濃密な空気、土地の歴史の匂いがする。
素朴な踊りであって、素人でもちょっと練習すれば、すぐに出来るようにみえる。
腕を水平に横にあげて、軽くステップを踏むだけのものだ。
別に超人的なステップではない。
が、実はそれほど簡単ではないようだった。
トヨエツは時代劇にも出て殺陣もできる、あるていど体の出来た役者さんだけど、
ギリシャダンスをする時、腰がふらついていた。
土地のオジサンのダンスは腰が定まっていて、かっこいい。
簡単そうにみえるダンスだけど、実際やってみると何でも難しいものなんですね。
私が一番おもしろかったのは、このギリシャダンスにかすかに「間(ま)」があることだった。
以前アンゲロプロスの映画で見たときも、それを感じた。
日本の能などに見られる「間」は世界的に見ても洗練の極致にあるけど、
あまりにも完成されすぎていて、私には野生の力が感じられない。
能面と同じように、何か大切なものが抜けている。
ギリシャダンスに限らず、
本来、土地に根づいた土着のダンスには、皆、その土地の「間」があるのではないか、
と私は思った。
それはその土地の霊なのだろう。
フラメンコにもステキな「間」がある。
「間」はどの土地の踊りでも、あるのがふつうだったのかもしれないと思った。
フラメンコでもフラダンスでも、劇場用のものや観光用のものからは、
そのダンスのエッセンスは抜けてしまっている。
フラダンスももともとは土地と結びついた宗教的なものなのだ。
現地のフラダンスを見た人から聞いたことがある。
「ふつう思われているフラダンスとは別物。太陽や海や風に向かって祈るような、大地が湧き立つような、敬虔なものであって、ちょっと日本の舞踏に似ている」と。
もともとはひとつのジャンルにすぎなかった、フランスの宮廷舞踊が出自であるバレエが、
劇場表現となり(つまり、土地から離陸して)、
世界を席巻することで、土着の「間」の価値は無視されてしまったのかな、と思う。
のっぺりとしたリズムがダンスの世界を支配することになった。
今でもその土地ごとの「間」はローカルな形で残っていて、
私達は、たまたま映画などでそれを見ることができる。
たいていは酒場などのシーンで、その土地の庶民のダンスとして登場する。
酔っ払いのおじさんやおばさんがヨロヨロしながら、
あるいは生真面目な顔で踊る。
彼らには、戦争で肉親を失った記憶や、
他国に支配され土地を奪われた記憶があるのだ。
なぜ映画で見る機会が多いのか、というと、
たぶん、映画監督というのはとても頭がよくて、
しかもどこか肉体労働者のようであって、
ダンスにおける大切なものが、劇場ではなく、ローカルな土地にあると感じるからではないかな。
そこには、人間や土地の情動や情緒があり、歴史があり、
映画というなまなましく総合的な表現に合っているのではないか。
劇場用のバレエやフラメンコからは、大切なものが抜けている、ということを
映画監督という人種は見抜くのではないか。
(ダンス映画はまた別のもの)
このトヨエツの番組を見て、ギリシャダンスを見たくなった私はYouTubeで捜してみた。
いくつかのギリシャダンスをそこで見たけど、
劇場用、観光用のものはつまらなかった。
土地の酒場などでたまたま撮影されたものが、すごくよかった。
素人のおじさんのダンスが一番上手だし色気がある。
そして土地のオジサンのダンスには、素晴らしい「間」があった。
生きているダンスだ。
酔っ払ってよたよたしながら作りだす「間」は、二度と再現できないような、
ダンス本来の姿があった。
「間」というのは「魔」であり、
踊るという行為のなかに、ひょっこり顔を出す他界の力だ、と思う。
踊るという行為の中に出現する神であり悪魔でもある。
それは異界と交流している証し、であるように私には感じられる。
その時はたぶん、踊っている人の息は止まるのだ、と思える。
そこには深淵が口をあけている。
本来、「踊る」とは、異界との交流が原点ではないか、という思いが改めてしたのだった。
と言うか、それなくしては私は踊る意欲が湧かないのだよ。
それが身体の不思議であり、色っぽいナニカなのだ。
厚化粧して肌を露出してクネクネすることだけが色気ではないのだ。
日本のふつうのオジサンが色っぽく踊っている姿は想像できないな。
クレタ島のオジサンは色っぽかったのよ。
間のない踊りとは、人間が制圧し尽くした世界であって、そこには奇跡は起こらない。
私達は「永遠」を覗き込むことはできない。
そしてその「間」は本来、土地と切り離すことは出来ないのでは。
能の「間」がイマイチなのは、そこに土地が存在しないからなのか。
武家の教養になってからなのか、伝統芸能として保護されているせいなのか、
能には、なにかが欠けている、と私は感じる。
(これに関連して、山形県の土着の能を見たときの感想を別に書きたい)
土地を失った私のような舞踏家にとって、生きた「間」とはなんなのか。
舞台人になるのではないとしたら、私はいったい何者になるというのだろう。
ふるさととの土地とはなんなのか。
私には、ふつうの意味でのふるさとはない。
私の踊りの「間」を保証してくれるものはないのだ。
・・・ ここに私の苦しい旅はつづくわけだ。
めちゃくちゃくるしいのだ。
(ギリシャ映画では見たことある。アンゲロプロス監督のものだったか)
豊川悦司さんが、ギリシャ文学「その男ゾルバ」の本を片手に、
その小説の舞台となったクレタ島をおとづれ、土地の人達と酒をくみかわす、
みたいな内容の番組だった。
「その男ゾルバ」はアンソニー・クイン主演で映画にもなった有名な小説。
バイタリティあふれる、汗の匂いがムンムンする、土地の力を体現するような男の話らしい。
映画「その男ゾルバ」では、最後に主人公達がギリシャダンスを踊る場面が重要なのだそうだけど、
この映画を私が見たのは大昔で、肝腎のその場面をおぼえていない。とほほ
このテレビ番組でも、最後にトヨエツが土地のおじさんと肩を組んでギリシャダンスを踊る。
このダンスがいい。
いかにも土地に根づいた、土地の匂い、土地の濃密な空気、土地の歴史の匂いがする。
素朴な踊りであって、素人でもちょっと練習すれば、すぐに出来るようにみえる。
腕を水平に横にあげて、軽くステップを踏むだけのものだ。
別に超人的なステップではない。
が、実はそれほど簡単ではないようだった。
トヨエツは時代劇にも出て殺陣もできる、あるていど体の出来た役者さんだけど、
ギリシャダンスをする時、腰がふらついていた。
土地のオジサンのダンスは腰が定まっていて、かっこいい。
簡単そうにみえるダンスだけど、実際やってみると何でも難しいものなんですね。
私が一番おもしろかったのは、このギリシャダンスにかすかに「間(ま)」があることだった。
以前アンゲロプロスの映画で見たときも、それを感じた。
日本の能などに見られる「間」は世界的に見ても洗練の極致にあるけど、
あまりにも完成されすぎていて、私には野生の力が感じられない。
能面と同じように、何か大切なものが抜けている。
ギリシャダンスに限らず、
本来、土地に根づいた土着のダンスには、皆、その土地の「間」があるのではないか、
と私は思った。
それはその土地の霊なのだろう。
フラメンコにもステキな「間」がある。
「間」はどの土地の踊りでも、あるのがふつうだったのかもしれないと思った。
フラメンコでもフラダンスでも、劇場用のものや観光用のものからは、
そのダンスのエッセンスは抜けてしまっている。
フラダンスももともとは土地と結びついた宗教的なものなのだ。
現地のフラダンスを見た人から聞いたことがある。
「ふつう思われているフラダンスとは別物。太陽や海や風に向かって祈るような、大地が湧き立つような、敬虔なものであって、ちょっと日本の舞踏に似ている」と。
もともとはひとつのジャンルにすぎなかった、フランスの宮廷舞踊が出自であるバレエが、
劇場表現となり(つまり、土地から離陸して)、
世界を席巻することで、土着の「間」の価値は無視されてしまったのかな、と思う。
のっぺりとしたリズムがダンスの世界を支配することになった。
今でもその土地ごとの「間」はローカルな形で残っていて、
私達は、たまたま映画などでそれを見ることができる。
たいていは酒場などのシーンで、その土地の庶民のダンスとして登場する。
酔っ払いのおじさんやおばさんがヨロヨロしながら、
あるいは生真面目な顔で踊る。
彼らには、戦争で肉親を失った記憶や、
他国に支配され土地を奪われた記憶があるのだ。
なぜ映画で見る機会が多いのか、というと、
たぶん、映画監督というのはとても頭がよくて、
しかもどこか肉体労働者のようであって、
ダンスにおける大切なものが、劇場ではなく、ローカルな土地にあると感じるからではないかな。
そこには、人間や土地の情動や情緒があり、歴史があり、
映画というなまなましく総合的な表現に合っているのではないか。
劇場用のバレエやフラメンコからは、大切なものが抜けている、ということを
映画監督という人種は見抜くのではないか。
(ダンス映画はまた別のもの)
このトヨエツの番組を見て、ギリシャダンスを見たくなった私はYouTubeで捜してみた。
いくつかのギリシャダンスをそこで見たけど、
劇場用、観光用のものはつまらなかった。
土地の酒場などでたまたま撮影されたものが、すごくよかった。
素人のおじさんのダンスが一番上手だし色気がある。
そして土地のオジサンのダンスには、素晴らしい「間」があった。
生きているダンスだ。
酔っ払ってよたよたしながら作りだす「間」は、二度と再現できないような、
ダンス本来の姿があった。
「間」というのは「魔」であり、
踊るという行為のなかに、ひょっこり顔を出す他界の力だ、と思う。
踊るという行為の中に出現する神であり悪魔でもある。
それは異界と交流している証し、であるように私には感じられる。
その時はたぶん、踊っている人の息は止まるのだ、と思える。
そこには深淵が口をあけている。
本来、「踊る」とは、異界との交流が原点ではないか、という思いが改めてしたのだった。
と言うか、それなくしては私は踊る意欲が湧かないのだよ。
それが身体の不思議であり、色っぽいナニカなのだ。
厚化粧して肌を露出してクネクネすることだけが色気ではないのだ。
日本のふつうのオジサンが色っぽく踊っている姿は想像できないな。
クレタ島のオジサンは色っぽかったのよ。
間のない踊りとは、人間が制圧し尽くした世界であって、そこには奇跡は起こらない。
私達は「永遠」を覗き込むことはできない。
そしてその「間」は本来、土地と切り離すことは出来ないのでは。
能の「間」がイマイチなのは、そこに土地が存在しないからなのか。
武家の教養になってからなのか、伝統芸能として保護されているせいなのか、
能には、なにかが欠けている、と私は感じる。
(これに関連して、山形県の土着の能を見たときの感想を別に書きたい)
土地を失った私のような舞踏家にとって、生きた「間」とはなんなのか。
舞台人になるのではないとしたら、私はいったい何者になるというのだろう。
ふるさととの土地とはなんなのか。
私には、ふつうの意味でのふるさとはない。
私の踊りの「間」を保証してくれるものはないのだ。
・・・ ここに私の苦しい旅はつづくわけだ。
めちゃくちゃくるしいのだ。